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米映画評論家が見た『となりのトトロ』

アメリカの映画評論家ロジャー・エバート(Roger Ebert)氏の評論サイトrogerebert.comがおもしろい。たくさんの映画レビューがある。見たことのある映画の分は全部読みたくなる。先日、千と千尋を思い出していたこともあり、宮崎駿関連を見てみた。
もののけ姫』と『千と千尋の神隠し』が四つ星、『ハウルの動く城』が二つ星半。四つ星が最高だが、「Great Movies」というカテゴリーがその上に位置するらしく、『となりのトトロ』はそこに入っている。ちなみに『火垂るの墓』も。
ロジャー・エバートさんは宮崎駿を激賞。アニメは子供向けのもの、それもディズニーだけ、という雰囲気らしかった数年前のアメリカの人々を宮崎アニメに誘おうと、データをあげたりシーンを紹介したり宮崎監督にあこがれるアメリカの映画人の言葉を出したり、あれこれ一生懸命言葉をつくしている。
自分が好きなものを他の人も好きだと嬉しい。
日本で言われているようなのと同じ感想もあるけれど、日本では注目されていないような点がロジャー・エバートさんにとって目新しく、そのことがこちらにも目新しかったりする感想もある。以下、感想への感想。
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My Neighbor Totoro(となりのトトロ)より。>から始まる部分は引用、その直下の〔〕内は意訳要約省略含む拙訳。引用部の順番は原文に一致しない。

悪者が出てこない、誰かと誰かが戦う物語ではない、という魅力。
>Here is a children's film made for the world we should live in, rather than the one we occupy. A film with no villains. No fight scenes. No evil adults. No fighting between the two kids. No scary monsters. No darkness before the dawn. A world that is benign.
〔私たちが今住んでいる世界、というよりは住まうべき世界を映し出している映画がここにある。悪役、闘い、嫌な大人、きょうだい喧嘩、おそろしい怪物、夜明け前の暗闇、といったものは全くない。あたたかさに満ちた世界。〕

>''My Neighbor Totoro'' has become one of the most beloved of all family films without ever having been much promoted or advertised. 【略】Whenever I watch it, I smile, and smile, and smile.
家族向けに最高!ぜひ見て!という思いが伝わってくる。I smile, and smile, and smile.のところでは、トトロの内容を思い出してレビューを読むこちらも頬が緩む。

>''My Neighbor Totoro'' is based on experience, situation and exploration--not on conflict and threat.
う、訳しにくい。これが入試問題に使われるのなら下線が引いてあって和訳しなさいとか説明しなさいとかいうことになっているに違いない。
>Notice how calmly and positively the scene has been handled, with the night and the forest treated as a situation, not a threat. The movie requires no villains. I am reminded that ''Winnie the Pooh'' also originally had no evil characters--but that in its new American version evil weasels have been written into A. A. Milne's benign world.
〔このシーン(雨が降るバス停で、サツキとメイがトトロと猫バスに出会い、見送ったシーン)がどれだけ静かで、肯定的に描かれていることだろう。夜と森は、怖さを演出するのではなくて単に一つの場なのだ。この作品は悪役を必要としない。私は、同じく原作では悪役のいなかった『くまのプーさん』を思い出す。ミルンの描いた優しい世界に、アメリカの新ヴァージョンでは悪いイタチが登場することになるのだが。〕
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>Miyazaki has not until very recently used computers to help animate his films; they are drawn a frame at a time, the classic way, with the master himself contributing tens of thousands of the frames.
監督自身が絵を描ける・描くというのは、アメリカのアニメ業界では珍しいのだろうか。エバートさんは「宮崎監督は自分自身の手で何万枚という絵を描いている!」と思っていたらしく、そしてそれがとても衝撃らしく、他のページでも何回か言及している。宮崎監督へのインタビューでは本人に直接そのことを持ち出している。
>Q. I was told that Miyazaki-san personally drew about 80,000 of the frames in "Princess Mononoke." Is that. . . .〔エバート:宮崎さんは『もののけ姫』ではおよそ八万枚の動画を自らの手で描いたとききました。それって…〕
>A. I've never actually counted how many I physically drew myself, but I'm deeply involved in checking and redrawing and touching up all the artwork that comes from the animators. So that's maybe where that legend comes from.
〔宮崎:実際何枚描いているか数えたことはないですが、アニメーター達のところから手元に来た動画は全部チェックしたり加筆修正したりしようと夢中で取り組んでいるので、そんな伝説ができてしまったのではないですか〕
エバートさんがっかりしなかったかな。信じがたい伝説が現実味のある話として確認できて嬉しかったのだとよいのだが。
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文化的相違。アメリカだったら普通こうなのに、という文に、そちらのものを余り見たことのない私は、アメリカだとそうなのか、と逆に情報を得ている。
>Miyazaki's films are above all visually enchanting, using a watercolor look for the backgrounds and working within the distinctive Japanese anime tradition of characters with big round eyes and mouths that can be as small as a dot or as big as a cavern.
〔宮崎の映画はなによりもまず、目で見て魅力的だ。水彩画のような背景、日本アニメ特有の大きな丸い目と小さな点かと思えばほら穴のように広がる口。〕
日本アニメって、普通の顔立ちのキャラクターだと鼻に存在感がないのも特徴ではないのかな。
目と口の表現についても、インタビューで持ち出していた。トトロ評に
>the two remarkably convincing, lifelike little girls (I speak of their personalities, not their appearance)
〔どこにでもいるような現実味のある2人の女の子(外見ではなくて、性格のことを言っています)〕
という表現があり、かっこの中の「外見」とは最初は人種的違いかと思ったが、目や口の表現のことだろうか。
>The film is about two girls, not two boys or a boy and a girl, as all American animated films would be.
〔この作品に出てくるのは二人の女の子。アメリカのアニメ映画では決まって二人の男の子か少年と少女なのとは違って。〕
珍しいんだ。でも宮崎監督も大抵はメインの女の子にサブの男の子です。

>but there is an old nanny who has been hired to look after them
カンタのばあちゃんが、雇われた子守ということになっている。隣家のおばあちゃんでサツキの家の大家さんなのに。日本的感覚から言うと結構高年齢になるまで子どもにシッターをつけないと虐待扱いということもあるアメリカのエバートさんにはそう見えただけなのか、アメリカの事情を汲んで配給側がそう見えるようにしているのか。

海外の吹き替え版の声優さんのしゃべり方は、高い教育を受けたご婦人のようなしゃべり方をなさっているそうです。まるで、学校の先生みたいだという意見もありました。

5.海外における宮崎・高畑アニメ事情 〜作品編〜

ということもあるのだろう。あの味のある方言もばあちゃんの大きな持ち味なのに。上のページによると他にも父親がよくしゃべるなど日本の原作と違うところが結構あるみたいで、見てみたい。作品違いだが、そのクラリスはないよ。
文化的相違による配慮といえば、父子のお風呂シーンはカットされているという話をきく。鈴木敏夫プロデューサー自らそう語っているようだ。

「トトロは世界各国でも見られていますが、アメリカで配給するときに、カットが言い渡されたシーンがあります。さつきとメイちゃんがお父さんと一緒に入浴するシーンです。」

http://homepage2.nifty.com/nagisa-saito/rirekiH16-7-12/concert2004-8-1.htm

が、さきほどのサイトでは、トトロはカット無しとの記述があった。いくつかヴァージョンがあるのだろうか。
starleaf.netに、ノーカットを条件にディズニーと提携、とあるから、つくりなおしたのか。amazonで探したら、英語版は94年作成のビデオしかでてこなかったが。
>Consider the way the children first approach the house. It has a pillar on its porch that is almost rotted through, and they gingerly push it a little, back and forth, showing how precariously it holds up the roof. But it does hold up the roof, and we avoid the American cliche of a loud and sensational collapse, with everyone scurrying to safety. When they peek into the house and explore the attic, it's with a certain scariness--but they disperse it by throwing open windows and waving to their father from the upper floor.
〔サツキとメイが、新しい家を初めて見て、外の柱をゆする場面。柱は朽ちかけていて不安定だけど、それでもやっぱり屋根を支えている。アメリカ映画だったら大音響とともに崩落して皆が逃げ出すところだ。2人が家の中に入っていき屋根裏部屋を探検するときは少しばかり怖い感じがするが、そんな気味悪さも、窓を開けてそこから父親に声をかけることで消し飛んでしまう。〕
無理に派手派手しくしない、自然な様子がよいようだ。
>There are two family emergencies:【略】. In both scenes, the mother's illness is treated as a fact of life, not as a tragedy sure to lead to doom.
〔家族に起こる2つの事件。お母さんのお見舞いに行くところ、病院から電報が来て街にいる父にサツキが連絡をとるところ。両方とも、母の病気は、不幸な結末に導かれる悲劇としてではなく、日々の生活の中のひとつの出来事として扱われている。〕
emergencyって非常事態、緊急事態、突発事件、というニュアンスだと思っていたが、電報のほうはともかく、お見舞いはemergencyって感じはしないなあ。引越し前もときどき行ってたし、病院に近くなって日曜ごとにお見舞いにいけるよ、というのが引越しのメリットの一つだったし(小説版より)。
>They also have an unforced realism in the way they notice details; early in ''Totoro,'' for example, the children look at a little waterfall near their home, and there on the bottom, unremarked, is a bottle someone threw into the stream.
〔宮崎の作品には、細部にいたるまでわざとらしくない自然な写実性がある。例えば『トトロ』の最初のほうの場面で、家の前を流れる川にある小さな段差を子ども達が見下ろしているとき、下のほうに誰かが昔投げ入れたガラス瓶がさりげなく描かれている〕
この瓶、私も印象に残っていた。エバートさんはここの描写もお気に入りのようで、千と千尋のレビューにも出てきた。


>And consider that the father calmly accepts their report of mysterious creatures. Do sprites and totoros exist? They certainly do in the minds of the girls.
〔父親は、トトロがいるという2人の娘の報告を落ち着いて受け止め、受け入れる。〕
>''While it's a little hard to tell whether the adults really believe in them,'' writes the critic Robert Plamondon, ''not once does Miyazaki trot out the hoary children's literature chestnut of 'the adults think I'm a liar, so I'm going to have to save the world by myself.' This accepting attitude towards traditional Japanese spirit-creatures may well represent an interesting difference between our two cultures.''
〔評論家Robert Plamondonはこう書く。"大人たち(両親やカンタのばあちゃん)が本当に彼女らの言うことを信じたのかどうかはちょっと判然としない。だが「大人は私のことを嘘つきだと思ってる、だから私は一人で世界を守らなければ」という古めかしい児童文学の陳腐な決まり文句を宮崎は持ち出さない。「おばけ」「もののけ」を受容するこの態度は、文化的相違として興味深い。"〕
日本にだって否定する大人はいる。引越しの日でぴりぴりしている千尋の母親が「馬鹿なこと言わないで」とか、父親が「気のせいだよ、千尋は怖がりだなあ」とか、十分あり。その一方で肯定する大人も十分ありだ。それが珍しいのか。ナルニア国物語、トムは真夜中の庭で、を今思い浮かべてみたが(精霊ものではないけれど)、たしかに肯定する大人というのは、自身も不思議体験しているような例外的存在扱いだったかもしれない。
>There is none of the kids-against-adults plotting of American films. The family is seen as a safe, comforting haven. The father is reasonable, insightful and tactful, accepts stories of strange creatures, trusts his girls, listens to explanations with an open mind. It lacks those dreary scenes where a parent misinterprets a well-meaning action and punishes it unfairly.
〔「大人とたたかう子ども」という、アメリカの作品のような筋立てではない。一家にとって自分たちの家族は心休まる居場所だ。父親は理性的で洞察力と機知に富む。娘達が語る奇妙な生き物の話を受け入れて、彼女らを信じる。両親が子どもの善意の行動を誤解して不当な罰を与えるといった、気がめいる場面はない。〕
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>It is awe-inspiring in the scenes involving the totoro, and enchanting in the scenes with the Cat Bus. It is a little sad, a little scary, a little surprising and a little informative, just like life itself. It depends on a situation instead of a plot, and suggests that the wonder of life and the resources of imagination supply all the adventure you need.

カリオストロナウシカラピュタの冒険活劇に比べてトトロはそこまでの大事件は起こらない。ほのぼの系。それなのにとても面白くて魅力を感じる理由は同じようだ。(冒険に行くというかたちで非日常にとびこむのも観ていて面白いが、日常なんだけど主人公達にとっては新しい世界というのも、観客にとってはやはり非日常に飛び込むようなものだから程度の違いかもしれない。)

でも、トトロを観たときに私が抱く最大の感情は、エバートさんの評にはなかった。
それは、圧倒的な懐かしさ。「ふるさと」と「少年時代」への。
この作品をつくった宮崎駿と、それを2,3年ごと夏真っ只中に放映するTV局は、確実に私の中の「日本のふるさと」観の拡大再生産に寄与している。実際は3代さかのぼってもまだ都市民で、山にキャンプに行ったことはあれど、あのような風景を画像・動画・車窓越しではなく直接目にしたことがあったかどうかもあやういのに。あのような農村風景だけがにっぽんのふるさとというわけでもないのに。農村生活の苦労、昭和30年代の今と比較して不便な暮らし、どちらも現在の自分とは遠くなっているものだからこそ、気楽に懐かしめるのだということもわかっているのに。
カリオストロラピュタ紅の豚魔女の宅急便ハウルの動く城に出てくるヨーロッパ風の風景は、美しい。綺麗だなあ、いい景色だなあ、と思う。が、懐かしさは感じない。アドリア海周辺あたりで生まれ育って、現在は違う風景の中で暮らしているという人が―まっただなかに暮らしていても余り感慨は抱かないのかもしれない。ハウルの動く城にて、ソフィーにとって初めての街で買い物に行く場面、海の見える坂道で「綺麗ねえ」と感動する彼女に、老人に扮したマルクルは「いつもと同じじゃよ」と返事する―いや、これはマルクルが幼いからという要素もあるか―これらの作品を見るとき、私がトトロを見たときに感じるのと同じような感慨を抱いているのかもしれない。