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「勤労の義務」に対応するのは誰の権利

権利と義務の基本関係は「Aさんの権利には、Aさんの権利を実現するというBさんの義務が伴う」。例外もあるとはいえ。(参考「権利には義務が伴う」の権利と義務の関係って - ykr)
その基本関係に照らすと、今の憲法に書いてある「国民の義務」に対応するのは誰の何の権利だろうと疑問に思い、考えてみた。(12条や13条に書いてある、一般的義務としての濫用禁止、公共の福祉に従え、という義務はここでは措く。)

単純に考えれば、国家の権利ということになるのか。憲法は国民と国家の権利関係を定めているから。
国民の勤労する義務-国民に勤労させる国家の権利、国民の納税する義務-国民に納税させる国家の権利、国民の子に普通教育を受けさせる義務-国民に(以下略)
だが、憲法が、国家の暴走を押さえる為に国民の権利を確保して国家を縛るものなのだとしたら、国家の国民に対する権利と考えるのは少々ぶっそうだ。

納税

脱税は処罰されるし、強制的に税金分の財産を徴収できるし、そうやって納税は実現させられるわけで、国家には「徴税する権利」があると言えそうだ。だが、よく考えると、「一人ひとりが人間らしく生きていくには、学校や病院や警察や裁判所や、いろいろ必要でお金がかかるから、みんなからその費用を集めるからね」ということで納税が必要になるのだから、国家のためというより、国家の背後にいる一人ひとりの個人の幸福のためというのが本当なのだ、と考えられる。
脱税を処罰するのも税金を集めるのも法律や条令という民主的根拠がなければできない、という点でもしばりがあるし。あれ、立法機関や世論の暴走には対応できないな、これだと。そのときはお願い憲法の番人最高裁、ということでいいか。
まあ、「納税の義務」については、「国家の徴税する権利」って言って言えない事もないけれど、その国家さんの背後の一人ひとりの国民のためだという本質を忘れてはいけない、くらいに考えておこう。

子に普通教育を

次。子に普通教育を云々。学校教育法22条と91条に、親の就学させる義務と、10万円以下の罰金という罰則が書いてある。そんなに立場は強くないけれど、国家が国民に義務の履行を迫れる。ということでこれも「国民の義務」に対応するのは「国家の権利」と言えそうと一瞬考えたが、これはどうみても本質は「子どもの権利」だよな。

勤労

千と千尋の神隠し』の油屋という世界では、「働かない者は豚にされる」「働かないものはここで生きていけない」と「働く義務」があり、雇い主の湯婆婆には働かせる権利がある。同時に湯婆婆には「働きたい者には仕事を与える」という義務があってこれは雇われる側からすれば「働く権利」だ。湯婆婆は就職希望者を拒否できない。憲法の「国民は勤労の権利を有し、義務を負う」という規定は油屋できれいに実現している。

旧東ドイツでは、勤労は国民の義務だからと、一定期間無職だと強制的に収容所送りになって働かされたらしい。(明確な資料を見つけられなかったので根拠は『マスターキートン』のみ。『Monster』だったかも。)これも綺麗に、国民の義務に対するのは国家の権利、という形だ。会社クビにされたら収容所送りの危機。上司最強。

まさかそんなね。就労をやんわりとでも強制するような法律は思いつかないなあ。
みんなが働かなくなったら、みんな一人ひとりが結局は困るだろ、という形で背後に個人の幸福を読み取ってみたけれどこれは苦しい。
義務といったって、「罰則のない努力規定による努力義務」というのがあるから、これはまあ罰則はない理想だけ言っときました的条項なのかな。

追記 ものの本によると、働く能力と機会がありながら働かない者への生活保護を国は拒否していい、という意味では意義があるそうな。なるほど。
国民の義務について本当は怖い日本国憲法に続く