ykr

弁護士の職業的責務とカズオ・イシグロ『日の名残り』

承前 社会全体から「お前はおかしい」「死ね」と言われたときに
ブックマークのコメントに、また考えさせられた。

id:legnumさん;
【前略】ただ被告人の供述に納得出来ない場合は断れるらしいのです。引き受けた=納得したって事じゃないんですかね

http://b.hatena.ne.jp/entry/http://d.hatena.ne.jp/yokores/20070528/p1

被告人の無理な主張に納得できなくても弁護は引き受けてその主張をする、というありかたも可能かなと思いました。輸血を拒否する教義に納得していなくとも、その教義を信仰する患者を尊重して、信者でない医師が輸血無しで治療をする、みたいに。むしろ、弁護人が納得できていなくてもなお被告人の立場に立つ、ということにこそ、昨日書いたような、(私が現在考えている)弁護士の役割の真髄があるのだろうと考えます。
―――
被告人と弁護人の意見が対立したときに辞任できるのかどうか、「弁護士 辞任 被告人」で検索してみると、弁護士のため息というサイトが出てきて、まさにこの問題について、光市の事件とも関連して詳しく書いてあった。

被疑者や被告人がこのように絶対に通用しない弁明をすることはよくあることだ。そういうときに、弁護人としてどうするかは難しい問題だ。

刑事弁護人の役割ー3つの質問(回答編)・設例B: 弁護士のため息

そして、刑事弁護についてのQに対する(一応の)回答ーその1: 弁護士のため息によれば、国選弁護人の場合は意見の相違を理由とした辞任はできず、私選弁護人の場合は意見の相違を理由とした辞任は困難なこともある、そうだ。

弁護人は、このように物理的にはありえない主張でさえ、主張せざるをえないこともあるのである。
 私の後についた弁護人は無理を承知で被告人のいうとおり主張し大変苦労されたようだ。もっとも、この青年は最終的には公判で罪を認めたそうだが。

涅槃の境地: 弁護士のため息

―――
個人的感情と業務遂行との葛藤、ということで、カズオ・イシグロの『日の名残り』を思い出した。(以下、小説の重要な展開や結末にふれる記述あり。)

主人公の執事が仕えてきたイギリスの貴族とその世界は、二つの大戦を経て没落してしまう。この小説は、主人公の執事の一人称という形式で語られる。彼は、今は没落してしまったけれども、かつて彼が仕えていた貴族の世界を美しい思い出として語る。

どうもことばにならない - Everyday Life in Uptown Tokyo on Hatena

執事スティーブンスの主人ダーリントン卿は尊敬さるべき立派な貴族。卿は国際融和という崇高な理念のために奔走し、ダーリントン邸には要人貴人が訪れる。スティーブンスは、広大なダーリントン邸の日常の切り回しに加え、卿が自邸で主催する国際会議などの華やかな行事も裏方として取り仕切ってきた。
ティーブンスは「品格ある偉大な執事」たることを目標とする。生涯「品格とは何か」「偉大な執事とはどういう執事か」という問を抱え、彼にとってその答えは、きっぱり明確に述べられるわけではないが、「職業的責務を全うすること」「主人に仕えるという職業的責務に専心する執事」であった。主人に尽くすことが執事の本分であり、主人の思想信条には踏みこまないし踏み込むべきでないと思っている。主人の思想と合わないなら勤め先を変える、という同業の知人の考えには否定的だ。また、政治は貴族のものであって執事スティーブンスのdutyではないとも考えていた。さらに、彼の考える職業的責務の前には個人的感情も押し殺されるべきものだった。いや、彼はそもそも、業務の遂行を妨げるようななんらかの個人的感情を自分が抱いていること自体を認めなかった。
彼が執事としての勝利感を抱き自らを誇らしく思ったという場面が二つある。父の死。女中頭の結婚退職願い。どちらの場面でも、彼は重要な局面にあった業務を普段どおりに執り行った。彼はそれらの出来事に心が動いたとは言わない。
「偉大な執事」の一人として尊敬していた父の死を悼む。仕事上の重要なパートナーであり同志ともいえる女中頭に自分が思いを寄せていることを認め、彼女もまた彼に思いを寄せていることに気付き応える。彼はそのような自分の感情を自分で無視した。

だが、「誇らしい気持ちがわきあがった」という独白と、そのときスティーブンスと接していた周囲の人物の言動の中には、スティーブンスが隠したあるいはなかったことにした葛藤がはっきりと読み取れる。一人称小説であるのに―スティーブンスの独白であるのに、スティーブンスが構築し語っている思い出の中にある多くのごまかしや欺瞞が伝わってくる。ただ、少なくとも一つのごまかしにだけは、彼は痛切に、そう、心を切られる痛さをもって、向き合うこととなる。
とはいえ、彼の信念と記憶、すなわち彼自身のアイデンティティは、揺らぎこそすれ破壊され再生するわけではない。彼は自分の人生が大きく違ったものとなっていた可能性と、自分の人生が今まで認識してきたものとは違ったふうに評価されうる可能性には気付いたものの、現在の主人アメリカ人ファラデーの「アメリカ式やりかた」の象徴―冒頭から真剣に悩んできた「軽口をたたくこと」―に関して、もっとジョークの練習をしようと決意するのがその直後の最終場面なのだ。
―――
ダーリントン卿の善意の奔走は、後に世間から親ナチス的行為として糾弾される。「華やかな国際会議」は実のあるものではなかった。(これも、独白から読み取れる「ごまかし」の例だ。)個人的幸福を犠牲にして―犠牲にしたことを彼は認めなかったが―職業的責務を果たしたスティーブンスの人生は、憐れなのか、崇高なのか。とどこおりなく執り行われた(というだけの)(歴史的には無益または有害と評価された)会議進行のために、個人的感情を犠牲にして果たされた任務、「偉大な執事」観にのっとった任務遂行は、滑稽なのか、美しいのか。

個人的感情と職業的責務の衝突にどう対応するか。ある職業の責務とは何か。人のはたすべき責務とは、職業以外にどんなのもがあるのか―家族や社会など共同体の一員としての責務?ではそれらの中身は。それらと個人感情との衝突は。あ、憲法問題とつながった。

この問題は自分には難しい。なんらかの意見めいた言葉さえ出てこない。とりあえず、私にとって『日の名残り』は何度も読み返し続けるだろう名作。人のアイデンティティとは、その人の信念と記憶。信念と記憶の中身。それがゆらぐとき。とりかえしのつかない人生。そんなことごとの哀しさ難しさ切なさ暖かさが好きだ。