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社会全体から「お前はおかしい」「死ね」と言われたときに

 いくら周りからおかしいと言われる主張であろうとも、そして結果的に主張は一蹴され死が宣告されるとしても、少なくとも一人だけは、自分サイドに立って発言してくれる。そういう余裕を持たせたシステムを維持することは大切だと思う。
 冤罪防止のためにという意味もある。だが、冤罪ではないことが明らかなときにもこのシステムを貫徹させること、それを選んでいる今の社会を、私は大切に思い誇りに思う。自分のために。また、自分以外の人のために。
 他人の命を侵した者は重い懲罰を課されうる。それは、その社会が人間の尊厳を認めている証――尊厳を侵した者は罰される。他人の命を侵した者もまた人間。死を以って罰す、この世界から排除する、と決めるまでは、尊厳ある人間として遇する。その者に寄り添い、存在を承認し、立場を同じくする同志的人間を保証する。その者を排除するその瞬間までも、できるだけの尊厳は認める。それは、人間の尊厳を認めることの、辛く困難かもしれない帰結だ。

弁護士の役割

 小さかったころ、弁護士*1は冤罪を防ぐためにいるのだと思っていた。
警察や検察や世間が、この人が犯人だ、と主張する。でももしかしたら違うかもしれない。逮捕には至らなかったものの、松本サリン事件。最近では、逮捕・起訴され無罪判決となった鹿児島の選挙違反冤罪。富山の強姦冤罪事件では有罪判決が出て服役も終えてから真犯人(と思しき人)が出るに至って冤罪とわかった。
この人が犯人だという一定以上の心証を警察や検察がもったなら、それを証明しようと捜査するのだから、犯人ではないという角度からの捜査はおろそかになりやすい。一般人の被疑者やその周りの人が、聞き込みや現場検証や鑑定など、警察と同等の捜査をするのは難しい。だから、せめてもの保障として弁護士は必須。
 
 だが、冤罪防止のためだけではないとはやがて気付く。現行犯で捕まって目撃者もたくさんいて、犯人であることが確実といえるときがあるではないか。それでも弁護士は付く。
中学生ともなると、部活やクラスの揉め事などで、対立する二者がいるとき一方だけの話では判断はつかない、とわかってくる。両方(あるいは三者以上)から話をきいて、それぞれの立場に立てばそれぞれの話は理解できる、ということがありうるのもわかってくる。仮に犯人であること自体には疑義がなくとも、社会背景や犯行動機や犯行経過などのいろいろの事情を、犯人の立場から見て代弁する役割が弁護士にはあるのだ。冤罪防止+多面的な考察の確保。
 
 さらに、多面的な考察といったってどう見てもその主張は無理じゃないか、という事例を知るようになると、弁護士の意義にまた疑問が生じてくる。新聞か雑誌の記事で「被告人が明らかに嘘や無理な主張をしてきたときには弁護士はどうするのか」というような記述を目にした。そこには、「あなたの味方である弁護人の私でも、この主張は納得できない。ましてや中立の裁判官は到底説得できない」とまず伝え、疑問をぶつける。それでも被告人が主張を引っ込めないときは、最終的にはその主張をする、とあった。何のために。無駄ではないのか。

 そして私は、今のところ冒頭の結論に達している。このあと生きていくうちに、また見方が変わったり深まったりするかもしれない。


このエントリは妙だな、と感じる理由 - good2ndと、その記事についたトラックバックhttp://d.hatena.ne.jp/legnum/20070527/1180279087」を読んで書きました。特に、トラックバック記事最終段

って事で多くの人が批判しているのは
・そんなトンデモ真相が信じられるかヴォケ
・そんなトンデモ真相を言い張る人間とは一生かかわりたくねーよ
って2つの理由からでしょ。

を読んで、自分が凶悪犯を無理な主張で弁護する人を否定することに躊躇するのはなぜなのかを考えて書きました。上記記事からmemo.「メディアリテラシー≠穿ち読み」「反射的感想≠その人の意見」
光市母子殺害事件の弁護士がどれだけ無理な主張をしているのかどうか、テレビ新聞Web報道に触れていなくて、まして弁護団の意見書(?)を直接全部読んだわけでもないのでわからない、ということから、第三者的で冷徹ともいえる記述となっているかもしれません。
活字中毒R。を読んで、凶悪犯罪自体は気分が悪いことだけれど、ボキヨン弁護士の姿勢は美しいと思いました。醜い姿勢よりも美しい姿勢の方が、見ていて気分の悪さは少なくなります。光市事件の弁護団の姿が醜かったのだったら、それを見たとき気分が悪くなる―あるいは激怒する―でしょうが、唾棄して排除すべき醜さなのか、嫌悪はしても許容すべき醜さなのかは、激情が収まってから判断したいです。

*1:刑事事件において