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「憲法には国民の義務もちゃんと書くべきだ」という意見への違和感

教育基本法を変える変えないの論議のときも、ここ数年の憲法を変える変えないの論議のときも、変えよう側の「権利と自由だけではだめだ。義務と責任(と伝統。今回は関係ないので略)を書き込め」という主張には、あまり心動かされていない。

現行憲法に書いてある

第一に、今の憲法にだって書いてあるんじゃなかったっけ、ということがあった。

日本国憲法
第12条 この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない。又、国民は、これを濫用してはならないのであつて、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ

第13条 すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。*1

「第三章 国民の権利と義務」が10条から始まる。10条が国籍についてで、11条が基本的人権について。14条からは「○○権」「○○の義務」と名前がついているような具体的な権利や義務があげられているから、12条13条は一般的に権利の大原則をあげているという位置づけか。(そうだたしか、14条以下に名前のない、プライバシー権とかの「新しい人権」は全部13条由来で保障可能、というオールマイティ的条項だったはず、13条は。)濫用するな、公共の福祉に反するな、ということを権利の大原則として書いているのだから、憲法結構仕事してるなと思う。解釈次第で怖いこともできそうな。

教育基本法は知らなかったけれど、調べてみたらそれっぽい言葉はあった。

旧教育基本法
第一条(教育の目的)
 教育は、人格の完成をめざし、平和的な国家及び社会の形成者として、真理と正義を愛し、個人の価値をたつとび、勤労と責任を重んじ、自主的精神に満ちた心身ともに健康な国民の育成を期して行わなければならない。

第二条(教育の方針)
 教育の目的は、あらゆる機会に、あらゆる場所において実現されなければならない。この目的を達成するためには、学問の自由を尊重し、実際生活に即し、自発的精神を養い、自他の敬愛と協力によつて、文化の創造と発展に貢献するように努めなければならない。 *2

検索すると、昔はいざ知らず、少なくとも今は「義務と責任を書き込め」という言い方はせず「義務と責任をもっと明確にせよ、強調せよ」と主張しているようだ。「あれではぬるい」「わかりにくい」と。それなら一つの論として理解できる。

自分の記憶では、中学校の公民で「国民の義務」として習ったのは、「勤労・納税・子に普通教育を受けさせること」。テストでは、国民の三つの義務は、と出題され、キーワード穴埋めか記号選択式かで答えたりしたのだろう。「公共の福祉」のほうは穴埋めか記号式で出題されていたと思うけれど、その実質的な意味は説明されたのか覚えていない。

これもまた、権利と義務の関係についてと同じく、納得したのは大学時代。
私の理解ではこう;権利と言うのは他者に向かって主張されるもの。他者に義務を求めるもの。そして人間は多数の人間からなる社会の中で生きているから、誰かの権利と誰かの権利がぶつかりあうことがあって両立が無理なことがある。どちらかが折れざるをえない。その「折れなければいけない事情」が、公共の福祉。
あるいは先日書いた、
Aさんの権利は、Aさんの権利を実現するというBさんの義務を伴う、だからAさんは自分の色々な権利を他人に尊重してもらいたいなら、Aさんが尊重してほしいのと同じ権利を他の人が主張したときには、それを実現する義務をAさんは負うべきだね」この意味での「他の人の権利の方を立てるAさんの義務」が公共の福祉。
(追記;「経済的自由を野放しにすると、強いもの勝ち&強いもの固定社会になって弱いものの権利が絵に描いた餅になってしまうから、ちょいと規制させてもらうよ」という福祉国家主義からの制約である「公共の福祉」というものも大学の授業では学んだ。でもこれは12,13条の「公共の福祉」とはまた別物だったと思うのでここでは省略。)

ぬるいとは思わないが、わかりにくいというのは共感できる。我思う故に我ありとは、疑えないものが一つだけあるそれは疑いそのものだということなんだよ並み。上の説明よりも、もっと具体例をあげてもっと言葉をつくして教えられなければ中学生にはわからないだろう。公共の福祉とは何か説明しなさい、という記述式のテストで大方の生徒が答えられるくらい、これは大事なことだと強調して丁寧に扱ってほしかった。もちろんその前にまずは権利の重要性もだけど。

員数主義は破綻した(リンク先第二項、日本陸軍についての箇所)

次に、書き込んだらそれで安心というわけでもなかろうと思うのだ。あるいは書き込んだからそれで安心となるのもこわいのだ。
憲法学というのがあり、法学部というのがあり、ということは、法律の字面が実質的にどういう意味なのかを解釈したり、解釈を理解したりするのは、それなりに技術と知識がいるということだ。さっき書いた「公共の福祉」の説明を、まさか全部条文にするわけにはいくまい。上にたくさん書いてしまったが、ふつうの人に読み解いて伝える、という作業は不可欠だ。だから、憲法の文言を変えるのと、多くの生徒が納得・実感できるような授業が教育現場で実践されるのと、どちらかを選べといわれたら断然後者だ。変えよう派はきっと、どっちもやろうと言っているだろうから、それは理解できる。理念だけ変えれば何か現実も変わるだろうとか、何はともあれ憲法の字面が気に食わないのじゃ、ということなら賛同できない。でも、変えよう派の真の目的が、義務や責任をみんなに植え付けようということにあるのなら、憲法を変えようとがんばるより、教育の場や社会生活の場でがんばるほうが誠実な態度だと思うのだ。って、両方がんばるのですか、それは失礼しました。

権利、義務、責任、公共、憲法の役割

一つ目と二つ目には納得できても、最後に残る違和感は、今目にする改正派の論調だと、権利と義務の関係やらなにやらの理解がどうも私とは違うのではないかと思うから。この項宿題。
>もちろんその前にまずは権利の重要性もだけど。
これと関係するはず。

メモ

http://d.hatena.ne.jp/good2nd/20070504/1178246705より

>「義務」や「責任」を国のものではなく国民のそれへと読みかえるっていうアプローチ

>「国または公共」と書くことに何の違和感もないのでしょう。たぶん「国の安全」と「公共の安全」が対立する可能性なんて夢にも考えてないんでしょうね

拙稿
「権利には義務が伴う」の権利と義務の関係って - ykr
「義務を果たしてからものを言え」 - ykrの (b)の物言いが気になる理由のあたり


このエントリはhttp://d.hatena.ne.jp/fuku33/20070504/1178277118を読んで、「員数主義」;紙の上だけで数字を整えても意味がない、どころか有害、ということから、義務を書き込め論への違和感の一つはこれかと思い、さらに命懸け:おもしろ父子家庭:So-netブログ
を連想したのもあって、書きました。また、「員数主義は破綻した」というフレーズが気に入り、それを使いたくて書きました。

*1:強調筆者

*2:強調筆者