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本当は怖い日本国憲法

心配性です。
承前「勤労の義務」に対応するのは誰の権利―「国民の義務」について考えた
条文にどんな言葉が書かれているか、だけでなく、現実にそれを社会がどう解釈するか、という点も重要だ。
昔の明治憲法すなわち大日本帝国憲法は、運用次第では自由で民主的な社会の憲法として機能するそうだ。国民の権利保護の観点からは今からすると甘すぎる書きぶりであり、思想言論統制社会を許してしまったが。

憲法に書いてある「国民の義務」は倫理的義務か法的義務か

国民の義務についてうだうだ一人で考えすぎだと思い、答えをてっとりばやく知りたくて書店で憲法の本をちら読み。その本は買わなくて書店さんすみませんありがとう。多分この本
憲法の本質は、人間の権利を守るために、それを侵害しがちな国家の権力(そういえば「権利」じゃないね「権力」だ)に歯止めをかけるものだから、憲法「国民の義務」の条項は国民に法律的義務を課すものではなくて、倫理的な指針だ、みたいなことが書いてあった。権利どうしの調整や福祉のために法律で国民に法的義務を課すのは可能だが、それは立法によるつまり民意に基づいていることが必要だし、立法によっても憲法の人権条項違反にならない範囲内で認められる、と。

代表的な憲法の本らしいから、それが学者の方々の意見の概ね一致するところなんだろう。上の説明に私は納得し賛成する。だが、倫理規定としての意味しか持たないという解釈ではなくて、憲法の条項が直接に法的義務を国民に課しているんだという解釈が出てきて、それが優勢になったらどうなるだろうか。学者の多数が断固として前者を指示していたって、多数世論や政府が後者に傾いたら、今の憲法のままでも、「勤労の義務」条項を根拠として、無職は懲役上司最強の世にできはしないか。最高裁違憲と言っても無視されたり、最高裁も合憲と言ったりして。

公共の福祉のためだったら生命を奪ってよい

あともう一つ怖いことに気付いてしまった。人権規定のおおもとの規定13条。

第13条 すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。日本国憲法

「公共の福祉」を理由に「生命」も奪うのが憲法上認められている。死刑OKの根拠はここなんだろう。災害現場でのトリアージで、公立病院の医師が、助かる見込みのない重傷者は放置し、即座に処置すれば助かる可能性の高い重傷者を優先する、というのも。Aさんの生命とBさんの生命のどちらかにしか対処できない極限状況で、Aさんの生命は対処しても助からないというときにはBさんを立てますよという制度は、私の理解するところの「公共の福祉」だ。(参考http://d.hatena.ne.jp/yokores/20070508/p1)

そう、「公共の福祉」概念の解釈をいじれば、生命さえも奪える範囲が連動していじれる。


新憲法大綱案 新憲法制定促進委員会準備会(pdf)>

「公共の福祉」という曖昧な概念に代え、人権の制約原理として、「国または公共の安全」、「公の秩序」、「他者の権利および自由の保護」など、より明確な概念を規定する。

http://d.hatena.ne.jp/good2nd/20070504/1178246705

3つ目ならいいと思うけれど、1つ目と2つ目には権力や多数意見の暴走を許しそうな甘さを感じる。今の「公共の福祉」概念が曖昧ということは、2つ目3つ目の意味での解釈を許す可能性を含んでいるということだ。
基本的には現行憲法の理念に賛同し、今の改憲論には及び腰な自分だが、13条の「公共の福祉」を「他者の権利及び自由の保護」に変える、という点のみの憲法改正であれば賛成するかもしれない。でなければ少なくとも、意味が曖昧だと言われないように、その実質的な意味を教育などによって世間に流布させ浸透させるという作業が今以上に必要だ。

「勤労の義務」に対応するのは誰の権利

権利と義務の基本関係は「Aさんの権利には、Aさんの権利を実現するというBさんの義務が伴う」。例外もあるとはいえ。(参考「権利には義務が伴う」の権利と義務の関係って - ykr)
その基本関係に照らすと、今の憲法に書いてある「国民の義務」に対応するのは誰の何の権利だろうと疑問に思い、考えてみた。(12条や13条に書いてある、一般的義務としての濫用禁止、公共の福祉に従え、という義務はここでは措く。)

単純に考えれば、国家の権利ということになるのか。憲法は国民と国家の権利関係を定めているから。
国民の勤労する義務-国民に勤労させる国家の権利、国民の納税する義務-国民に納税させる国家の権利、国民の子に普通教育を受けさせる義務-国民に(以下略)
だが、憲法が、国家の暴走を押さえる為に国民の権利を確保して国家を縛るものなのだとしたら、国家の国民に対する権利と考えるのは少々ぶっそうだ。

納税

脱税は処罰されるし、強制的に税金分の財産を徴収できるし、そうやって納税は実現させられるわけで、国家には「徴税する権利」があると言えそうだ。だが、よく考えると、「一人ひとりが人間らしく生きていくには、学校や病院や警察や裁判所や、いろいろ必要でお金がかかるから、みんなからその費用を集めるからね」ということで納税が必要になるのだから、国家のためというより、国家の背後にいる一人ひとりの個人の幸福のためというのが本当なのだ、と考えられる。
脱税を処罰するのも税金を集めるのも法律や条令という民主的根拠がなければできない、という点でもしばりがあるし。あれ、立法機関や世論の暴走には対応できないな、これだと。そのときはお願い憲法の番人最高裁、ということでいいか。
まあ、「納税の義務」については、「国家の徴税する権利」って言って言えない事もないけれど、その国家さんの背後の一人ひとりの国民のためだという本質を忘れてはいけない、くらいに考えておこう。

子に普通教育を

次。子に普通教育を云々。学校教育法22条と91条に、親の就学させる義務と、10万円以下の罰金という罰則が書いてある。そんなに立場は強くないけれど、国家が国民に義務の履行を迫れる。ということでこれも「国民の義務」に対応するのは「国家の権利」と言えそうと一瞬考えたが、これはどうみても本質は「子どもの権利」だよな。

勤労

千と千尋の神隠し』の油屋という世界では、「働かない者は豚にされる」「働かないものはここで生きていけない」と「働く義務」があり、雇い主の湯婆婆には働かせる権利がある。同時に湯婆婆には「働きたい者には仕事を与える」という義務があってこれは雇われる側からすれば「働く権利」だ。湯婆婆は就職希望者を拒否できない。憲法の「国民は勤労の権利を有し、義務を負う」という規定は油屋できれいに実現している。

旧東ドイツでは、勤労は国民の義務だからと、一定期間無職だと強制的に収容所送りになって働かされたらしい。(明確な資料を見つけられなかったので根拠は『マスターキートン』のみ。『Monster』だったかも。)これも綺麗に、国民の義務に対するのは国家の権利、という形だ。会社クビにされたら収容所送りの危機。上司最強。

まさかそんなね。就労をやんわりとでも強制するような法律は思いつかないなあ。
みんなが働かなくなったら、みんな一人ひとりが結局は困るだろ、という形で背後に個人の幸福を読み取ってみたけれどこれは苦しい。
義務といったって、「罰則のない努力規定による努力義務」というのがあるから、これはまあ罰則はない理想だけ言っときました的条項なのかな。

追記 ものの本によると、働く能力と機会がありながら働かない者への生活保護を国は拒否していい、という意味では意義があるそうな。なるほど。
国民の義務について本当は怖い日本国憲法に続く